天導使Z
PART 1
――よいか? Z(ゼット)。おまえはこれから地上へ行って善き魂の持ち主を100人、この天へ導いて来るのだ。よいな?
そう偉そうに告げたのは神だった。そうして彼は天よりこの地上へ遣わされたのだ。というより、悪戯が過ぎて罰をくらい、地上へ落とされたという方が正しい。Zというのは神から罰を受けた者に対する呼称だ。彼はこれより、個としての名前はもちろん、天使としての能力も奪われ、人間と違わぬ姿で地上に落とされた。彼が再び天へ戻れるとすれば、与えられた仕事をこなし、深い反省と共に神に許しを乞うしかない。が、彼はとんでもない性格の持ち主だった。
「ちっきしょう! あのくたばり損ないのくそじじいめ! おれがそんなことで反省するとでも思ってやがんのか? もーろくするのもたいがいにしろいっ!」
彼は天に向かって喚き散らした。が、いくら叫んだところで天まで聞こえる筈もない。彼の声は空しく宙に消えた。が、周囲の家々の窓の向こうでは人間達が、何事かと彼の方をじろじろと見ていた。
「何だ何だ? 見世物じゃねえぞ! バカヤロー!」
彼は怒鳴った。その剣幕に皆は恐れ戰いて窓際から離れた。
「まったく! 何てカンジのわりぃ連中だ」
彼は見た目には中学生くらいの少年に見えた。一応、中身は天使なので容姿だけは美しい。が、残念ながらその性格までもが美しいとは言えなかった。地上は天とあまり変わらなかったが、雑音や悪臭、人が吐き出す怨念や嫉妬、負の感情で満ちていた。
「何だかすげーやなカンジ。やたらじめじめしやがって、あー、むかむかする」
彼はぶつくさ言いながら道路の真ん中を堂々と歩いた。その両脇をけたたましい音を鳴らしながら走り去って行く鉄の塊……。
「何なんだよ? 地上ってのは何て騒がしいんでえ!」
彼は車に向かって文句を言った。すると、彼にとっては柵、地上ではガードレールと言われている物の向こうから警察官が笛を吹いて叫んだ。
「君! 危ないよ! 早く歩道に……」
警官が手招きする。
「何? 意味わかんねえんだけど……」
彼はきょとんとして立ち止まった。
「早くこっちへ来るんだ!」
車はビュンビュン通り過ぎて行く。その流れが途切れた時、若い警察官はガードレールを跳び越え、少年のところに行って腕を掴んだ。
「てめえ、何しやがる!」
少年がもがく。が、どういう訳か力も弱くなったらしく、男に捕まえれたまま彼は歩道へと連れて来られた。
「君、道路の真ん中に出ちゃ駄目じゃないか。もう少しで車に引かれるところだったんだぞ」
「引かれたら何か都合の悪いことでもあんのか?」
少年は逆に訊いた。すると警官はたちまち慈悲深い表情になって少年に向かって微笑した。
「そうか……。わかった。もう何も心配しなくてもいいんだよ。お巡りさんが付いていてあげるからね」
そう言うと若い警官は彼の肩に手を乗せて頷いた。
「何なんだよ? 気色ワリィなあ」
「いいからいっしょに行こう。すぐそこだからね」
連れて来られたのは交番だった。
「さあ、入って。心配しなくてもいいよ。今、ここにいるのはお巡りさん一人だけだからね」
「一人? おれがいるじゃねえか」
少年が言った。
「ああ。そうだったね。君がいるから今は二人だ。よくわかるんだね」
若い警官はまた微笑した。
「それで、君の名前は何ていうんだい?」
「天使」
少年が答える。
「そう。天使なの」
警察官は微笑して質問を続けた。
「それで、天使の君の名前は何て言うの?」
「天使は天使だ! 文句があるか? 今はZと言われてる」
「そう。Z君ね」
男の表情はますます同情的になっていた。
「それで、Z君のおうちは何処にあるのかな? お父さんやお母さんの名前わかる?」
「知らねえよ、そんなもん」
彼はふてくされたように応じる。
(ちっきしょ。こいつ、はなから信じてねえな)
彼は早くそこから出て行きたかった。
「そんで、おめえは何だよ?」
質問ばかりされているのはしゃくなので、少年は逆に質問してやった。
「私は霜田という。見ての通り、警察官だ」
「警察官? さっきあんたお巡りさんだって言ったじゃねえか」
「同じだよ。庶民からは親しみを込めてそう言われている」
「そんで、そのお巡りさんってのは何だよ?」
「人に危害を加えようとする悪い奴を捕まえたり、道案内をしたり、君のような迷子を保護したりするんだ」
「何だよ、それ。しかもおれ、迷子じゃねえし……」
少年が文句を言う。
「とにかく、正義と人々の安全を守るために働いているんだ」
「正義? それっていい奴ってことだよな?」
少年は確かめた。すると警官は頷いて答えた。
「もちろんだよ。正義なくして警察官は務まらない」
「ヒャッホウ! おれはしょっぱなから運がいいぜ。よっしゃ、そんじゃ早速行こうぜ」
霜田の腕を掴んで少年が言った。
「行くって何処へ?」
「決まってらあ。天国さ」
「天国だって?」
「そうさ。おめえ、運がいいな。おれの天使としての地上でのお仕事第一号ってのに当たったって訳だ」
「おいおい、本官はまだ死んじゃいないよ。だから天国へは行けないんだ」
「何でだよ?」
「それはね……」
その時、電話のベルが鳴った。
「あー、ちょっと待っててね」
そう言うと警察官は受話器を取った。
「はい。こちらは早咲四丁目交番ですが……」
少年は少しだけ交番の中にある物を珍しそうに見まわしていたが、すぐに飽きてしまった。受話器を持った霜田は何かのメモを見ながらややこしい話をしている。どうやら長くなりそうだ。少年は霜田が背を向けた瞬間、さっと交番から飛び出して行った。
せっかく見つけた善い魂だったかもしれないが、取り合えず、この場所にマーキングしておけばいいことだ。彼は交番の屋根にあるチカチカした物に印しを付けておくことにした。が、能力を失くしているので飛ぶことができない。仕方なく、彼はブロックの塀をよじ登り、更に隣の家の庭に生えている木の枝をつたってその屋根に上るとペッと唾を付けた。ふと下を見ると霜田が慌てて外に出て少年を呼んでいた。が、何処にもその姿は見えない。若い警察官は自転車に乗って通りの方へ行ってしまった。放っておいては危ないと思い、急いで探しに出たのだろう。
「けっ! おれはそんなにドジじゃねえっつの」
少年はするりと木をつたわって道路に降りた。そして霜田とは反対側の方へと走った。
「あいつはリザーブしたけど、あと99人導かなきゃならねえ。どっかに手頃な魂落ちてねえかな」
などと呟きながら歩いていると、いきなりガツンと何かが足にぶつかった。
「いってえ! 何だよ?」
少年が振り向くと小さな男の子がリモコンを持って駆けて来た。
「ごめんなさい。お兄ちゃん。お庭でラジコンやってたら急に車が外に出ちゃったの」
「ラジコン?」
足もとでは赤い車がウィンウィン唸りながらタイヤを空回りさせている。どうやら彼の足につかえて動けなくなったらしい。
「何だよ、これ?」
少年が訊いた。
「お兄ちゃん、ラジコンを知らないの?」
驚いた顔で男の子が見つめる。
「知らないとわりいのか?」
「ううん。そんなことないよ。ぼくだってはじめてだからうまく操縦できなかったんだもの」
「そんで、ラジコンって何だよ?」
「ああ。リモコンでこの車を動かすんだよ。ほら、このレバーを倒すとね、右へ。反対に倒すと左に動くの」
男の子がやって見せると彼は目を丸くしてそれを見つめた。
「すげえな、おい。ちょっとおれにもやらせろよ」
「いいよ」
男の子がリモコンを貸してくれたので彼は右左バック前進とレバーを動かしては、離れたところにある車が動くのを見て興奮した。
「へえ。人間ってえのもいいもん持ってんじゃねえか。こいつは天国なんかよりよっぽど楽しいかもしれねえぞ」
「天国?」
少年の言葉に男の子が首を傾げる。
「そうさ。だっておれ天使だから……」
「天使? それじゃあ翼があるの?」
男の子が訊いた。
「ああ、あるぜ。立派なのがな」
少年が答える。
「ほんとに? なら見せて!」
男の子が目をきらきらさせて言う。
「ああ。いいとも。ほら」
ところが、何も変化は起きなかった。
「どうしたの? 翼は?」
男の子がせっつく。
「ああ、わりィ。今はそのゥ、翼は休ませてるんだ」
少年が言い訳する。
「……うそつき!」
男の子はそう言うと庭の奥へ駆けて行ってしまった。
「おい、待てよ! うそじゃねえんだ。おれはほんとに……」
が、子どもはもう家のドアの奥に入ってしまった。バタンと閉まったドアの音が胸の奥にズキンと響いた。少年は残された車とリモコンを持ってそのドアの前に置くと呟いた。
「うそじゃねえんだ……」
しかし、そのドアはもう開く様子はない。彼は仕方なくその家を離れた。
「ちっきしょ。くさくさするぜ。あーあ。何か景気のいい魂でも落ちてねえかな」
彼はきょろきょろ辺りを見回しながら歩いた。すると、通りの端をよたよたと歩いている老婆を見掛けた。
(おっ! いたいた。善人そうですぐにも導かれて逝ってくれそうな奴……)
彼は急いでその老婆のあとを追おうとした。ところが、その人間には既に付いている者がいた。老婆のあとから適当な間をとってぴったりと付いて行く男がいる。
「何だ? あの野郎。天使にしちゃいけすかねえ顔だぜ」
帽子を深く被り、色の濃いサングラスを掛け、携帯電話で何やらぶつぶつと言っている。
「何だ、ありゃ。リモコンで婆さんを操ってんのか?」
彼はじっとそれを観察した。
「そうだ。そこの角を右だ」
怪しい男は低い声でリモコンに向かってしゃべった。すると、前を歩いていた老婆が男に言われた通り、角で右に曲がった。
「ははーん。やっぱりそうだ。人間ってのはよほどラジコンってのが好きなんだな」
彼は感心したように腕組みをし、更に観察を続けた。
角を曲がって少し行くと四角い囲いが見えた。その奥には広い駐車場とスーパーの建物があって賑わっていたが、手前の四角い建物は静かだった。それは銀行のATMだった。個室になった部屋には機械が二つ仲良く並んでいる。中には誰もいない。
「よし。そこのATMで金を振り込むんだ」
男が命じる。老婆は頼りなさそうに頷くとその中へ入って行った。
「ほんとにすげえな。リモコンってのは……。おれもやってみてえ」
彼は男の方へ歩んで行った。その便利なリモコンで人間を操るってのを体験してみたかったのだ。
「そう。番号は……だ。そして、金額は170万だ。孫の命はたったそれだけで救われる。どうだ? 安いもんだろ?」
男が携帯に口をつけていやらしく笑う。
「おい、おまえ」
すぐ後ろから少年が声を掛けた。
「な、何だ? てめえは……?」
動揺する男。
「そのリモコン、ちょっとおれにもやらせろよ」
「何だと?」
「いいから貸せってんだよ」
「何言ってるんだ?」
「おめえ、今、そのリモコンでそこの婆さん操ってたろうが」
「何のことだ? おれは知らんよ」
男はとぼけた。
「ばっくれんじゃねえよ。ほら、そこのリモコンから婆さんの声がしてんじゃねえか」
少年は無理やり男の手からそれを奪おうとした。確かに、その携帯からは老婆の声がもれている。
――「それで、本当に孫の命は助かるんでしょうね? あの子は何処に……? 早くあの子に会わせて下さい」
「くっ!」
男は急いで携帯に口を近づけて言った。
「確認ボタンは押したか?」
――「いいえ、まだです。その前にせめて孫の声を聞かせて下さい。お願いします」
「いいから早く確認ボタンを押すんだ。それで終わりだ」
男が怒鳴った。
「終わり? ずりいぞ! おれにもやらせろって言ったのに……。一回でいいからさ、やらせてくれよ」
少年がそのリモコン、いや携帯を取ろうと手を伸ばした。
「やめろ! このガキ!」
男が腕を高く上げて携帯を取られまいとする。それに向かって少年が手を伸ばす。
「しつけえぞ、この野郎!」
男が少年の胸倉を掴んだ。
「何すんだよ、バカヤロー!」
少年が喚く。いつもならそれくらい何てことなく引き剥がし、相手をぶちのめすこともできた。なのに、今はそれができない。
「ちきしょっ! 力が出ねえ」
それでも彼は抵抗を続ける。捕まえられている男の腕に噛みつき、向こうずねを蹴飛ばした。
「いててっ! ガキだと思って手加減してれば……」
男が逆上し、持っていた携帯で少年を殴りつけた。首を絞めつけ、何度も執拗に殴り続けてくる。
頭がくらくらした。今はただの人間の子どもでしかなくなっていた彼にとって、そのダメージは大きかった。その時、ATMのボックスの扉が開いた。外の騒ぎに気づき、老婆が驚いて出て来たのだ。
「きゃあ! 誰か! 人殺し!」
老婆が叫んだ。
「人殺しだって?」
丁度、歩道を通り掛った警察官がその声を聞き付けた。それは少年を探しに出ていた霜田だった。
「貴様っ! その子を放せ!」
自転車を乗り捨てると霜田が男に飛び掛かった。奥からスーパーの店員や警備員達もやって来る。男は観念し大人しくなった。
「暴行の現行犯で逮捕する」
警官が告げた。
「そんな……」
手錠を掛けられて男ががっくりと項垂れる。
「君、大丈夫か?」
「ああ。おれは大丈夫だ。けど、婆さんが……」
彼は振り返って老婆を見た。
「そいつがリモコンで婆さんを操ってここへ連れて来たんだ」
少年が言った。
「何だって?」
「だから、おれ、ちょっと貸してくれって言ったのによ、こいつときたらずっと独り占めしてて貸してくれねえんだ」
少年は説明した。が、もはや警官は少年の言葉など聞いていなかった。
「貴様は、このところ横行しているお年寄りを狙った振り込め詐欺の一団だな?」
「そ、そんな、おれはただ……」
「言い訳なら署でじっくり聞こうか。その携帯を調べればすぐにわかることだからな」
それを聞くと男はさらにうなだれた。
「せっかくいいカモの婆さんを見つけたのによ。あと少しで成功するところだったのに……」
男が悔しそうに少年を睨む。が、当の少年はあさっての方を向いて口笛を吹いていた。
「悪いことをすれば地獄に落ちると相場が決まっている」
警官が言った。
「へへ。地獄だなんてオーバーな……」
男は言ったが、警官は冷たい目で会われな男を見降ろした。男の手には銀色の手錠。そこに刻まれているのは骨の紋章……。地獄への招待状だった。
「婆さん……」
少年がそちらを見た。するとたちまち老婆の目が潤んだ。
「おまえはほたる!孫のほたるだね?」
老婆はそう言って彼を抱き締めた。
「何言ってんだよおめえ……。おれは……」
「ほたる! ああ、無事でよかった。一目見てわかったよ。孫のほたるが帰って来てくれたんだってね。ああ、もう放さないよ。もう二度とおまえを亡くしたりするもんか……」
彼女は涙まで流して喜んでいる。それを見て警官が訊いた。
「その子はあなたのお孫さんなのですか?」
「ええ。ええ、そうですとも。わたしのかけがえのない孫のほたるに違いありません。悪い奴に捕まってさぞかし怖い思いをしたんだろうね。ああ、よしよし。もう心配することは何もないんだよ。このわたしがきっとおまえを守ってやるからね。もう二度と誰のところにもやりはしないよ」
「おい、婆さん……」
少年は戸惑っていた。
「そうですか。それはよかった」
警官はあっさりと納得したようである。
「君、ちゃんと身元がわかってよかったね。もう大丈夫だ。こんないいお婆さんがいるんだからね」
少年に向かって微笑するとその肩を叩いた。
「だから、何なんだよ? おれにはさっぱりわかんねえよ」
少年は喚いた。が、その彼の耳に霜田が囁く。
「君のおかげで私のポイントが一つ上がった。お礼に君のことは見逃しておくよ。君は来たばかりで、まだ何もわかっていないのだろう? この世界のこと」
「何だって? おめえは一体……」
「私は地導使。悪しき魂を地獄へ導く者。いわば、おまえとは正反対の道を行く悪魔のような存在さ」
「何だって? そんじゃ、何でその悪魔が正義の警察官なんて仕事やってんだよ?」
「わからないか? やみくもに探し回るよりもよほど効率的だってことが……。そこにいさえすれば向こうから悪い魂が積極的にやって来てくれるのだからね。こんなおいしい仕事はないさ。だから、君もがんばれよ。新米天使君。いいや、今は名前があったんだったね。天野ほたる」
「天野ほたる……?」
「そう。天野のお婆さんの孫のほたるはもう5年も前に亡くなっている。だが、彼女はその現実を受け入れられないでいる。だから、年格好の近い君を見て、孫のほたるだと思い込んだんだ。丁度いいじゃないか。君は天導使なのだから、この老婆の孫として居つき、いずれはその魂をもらい受ければいい。実に効率的だ」
「でも……」
少年はどうも納得がいかなかった。が、老婆のうれしそうな顔を見ると、迷いが生じた。
「ほたる、さあ、早くおうちへ帰ろうね。わたしのほたる」
老婆はぎゅっと彼の手を握った。しわがれた小さな手だった。それに、妙にあたたかい鼓動を感じた。
「おれが戻って来てそんなにうれしいんか?」
「もちろんだよ。ああ、もう二度と何処にも行かないでおくれね。わたしのほたる……」
「わたしの……ほたる……」
その言葉が彼に光を与えた。
「天野ほたる……か。ま、悪くねえかもな」
彼はにっと笑うと痩せた老婆の手を握り返した。
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